熊谷空襲の日

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1945年8月14日、御前会議では降伏が決定され、その数時間後には、終戦の玉音放送が予定されていた23時、熊谷中心部は空襲を受けた。

あと、数時間生きのびることができたら、平和な生活が待っていたのに。

市街地の7割が壊滅的な状況となり、266人の方が亡くなられた。

熊谷出身の母によれば、昔は星がうつるほどのすんだ流れだったそうな。

その星川が熱くなるほどの火の勢いだったと子供のころに聞いた。


弟は戦死、夫は戦地という心細い状態で聞いたB29の音、真っ赤に燃えあがる南東の空、不安だったことだろう。

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今日は家族そろって、墓参りに。

墓地にも、戦争で亡くなられた方の石碑がある。

若くして死ななければならなかった若者たちを思う。

子供を兄弟を友人を失った人たちの気持ちを思う。

大戦では、約300万人の方がなくなられた。約なんて言ってはいけない一人ひとりがいたのだから・・・。

どの家族にも親戚にも知人にも、戦死者がいたような状況であったという。

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NHKの番組「海軍400時間の証言」を見た。

組織の力の恐ろしさを、避けられたはずの戦争を思った。

人間は、プライド・功名心・負けん気・猜疑心、さまざまな感情に動かされている。

しかし、その対極にあるものも多く持ち合わせているし、プライドや功名心だって時には必要な時もある。

それがすべてある方向へ向かって一つになってしまったときに悲劇が起こるのだ。


発言者の生前には絶対に公表しないという約束の下に語られたさまざまな証言、戦争へのかかわり。

反省のない笑いもあった。

他人のせいにするものもあった。

知らぬ存ぜぬもあった。

強い後悔の弁もあった。

押しつぶされた感情の吐露もあった。


台風の発生・成長のように大きな渦となってしまった戦争への道。

再び、繰り返してはならぬ。絶対に。

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久しぶりに開いた母の遺品の中に、20歳と少しで亡くなったおじの若い写真とおじが戦地から送った手紙。

大切に薄紙にくるまれていた。

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父は現在の韓国釜山の近くでソ連軍に囲まれ捕虜に。シベリアで強制労働に。

ソ連(CCCPとある)から届いた父の直筆。(一番上は戦中届いたもの)

戦争が終わっても消息がつかめず、なかなか戻らない夫を心配する母には、どんなにうれしかったことだろう。

カタカナで2行、ゲンキダとだけ。たぶん検閲があり、判読しやすいカタカナで書くことが求められたのだと思う。

伝えたいことは山ほどあったはずなのに・・・・。

他にももう1通あった気がするが・・・。

早大の先生にこの手紙を見ていただいたが、どこから出されたかは、わからなかったと母の日記にあった。


今の若者たちは、多くの諸君が、こういう事実を知らずに、考えずに生きている。

伝えていかなければならない。

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by akaigabera | 2009-08-14 22:55
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